きんきのごく8。 【モンスト】禁忌の獄【8】適正キャラと攻略方法|八ノ獄|ゲームエイト

【モンスト攻略】禁忌の獄9のギミックと適正キャラランキング【九ノ獄】

きんきのごく8

汎用性の高いアビリティに加え、ザコ処理しやすいSSとサポートと火力に優秀な友情を持つ性能です。 入手難易度が高いですが、全キャラを含めてもトップクラスの破格な性能を持つキャラです。 進化はラックに応じてアビリティが強化され、運極にすることで神化にいつでもスライド可能です。 初クリア報酬一覧 ステージ 報酬 禁忌の獄で使えるスペシャルアイテム 対象の階層でSPアイテムが使用可能に 「禁忌の獄」一ノ獄〜十五ノ獄までの各階層で「スペシャルアイテム」の使用が可能になりました。 各フロアによって発動する効果は異なるので注意しましょう。 ステージを進むたびに難易度も上がっていくため、事前に攻略情報や適正を見て攻略に挑みましょう。 ミラクルミンが使える階層もある 0コンテニュー専用ステージでHPが0になった際、HPを全回復できる「ミラクルミン」が使える階層があります。 「禁忌の獄」が苦手な方は、「ミラクルミン」をストックしておけば、負けてしまった場合でも復活することが可能です。 禁忌の獄とは? 超高難易度の特別クエスト 新コンテンツの「禁忌の獄 きんきのごく 」は、「」を制覇したユーザーのみが挑戦できる、新たな超高難易度のダンジョンとなっています。 『モンスト』内の戦績で、「封印の玉楼の最高達成列」が12列になっていればいいので、 過去に1度でも制覇していれば挑戦が可能です。 また、「封印の玉楼」は「」をクリアすることで挑戦できます。

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【モンスト】禁忌の獄【8/八ノ獄】攻略と適正キャラランキング

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戦国時代の地域権力を指す言葉としては、古くは「戦国大名」の他に「分国大名」「領国大名」「戦国諸侯」など様々な呼称が用いられていたが、に専門誌である『』にて(164号「太閤検地の歴史的前提(2)」)と(166号「戦国大名の権力構造」)が、 あいついで「戦国大名」の用語を用いたことがきっかけで普及したと言われている。 「戦国大名」の定義については現在に到るまで曖昧さを残したまま検討が続けられているが、おおむねのと比べると、戦国大名は、室町将軍など中央権力と一線を画し、守護公権のあるなしに関わらず国内を独自に統一する権力を有する。 また、有力国衆など・の統制を強化し(家臣団)を構成し、領国内においてを課すシステム(例えば)を確立している。 最初の戦国大名はの興したであり、戦国時代の嚆矢とされる一方、天下統一の際に最後の戦国大名としても名を残している。 領国内の治安を維持し統一を図るため、独自に被官・家臣間、領民間の争いを調停した。 そのため目安制を導入し領民や家臣からの訴え出を把握し、評定衆による裁判を行わせるなどして、大名主導により紛争の解決を行い、その基準を明文化した()を制定するものもあった。 戦国法の制定は戦国大名の大きな要素として評価される事もあるが、分国法を制定していた戦国大名は少数である。 このような戦国大名による独自性の高い強固な領域支配をという。 これは守護大名のがより集権性を高めて発展した支配形態とも評価される。 守護大名が室町幕府よりに任じられたという権威を根拠とする事により支配を行い、守護職は単位であるため、その支配も守護に任じられた令制国内に限られたのに対して、戦国大名は、により従来の守護を打倒するなど、その実力によって領国支配を確立して軍事行動や外交などを独自の権限で行った。 そのため戦国大名の領国は令制国単位に限られず、領国拡大を行い複数の令制国にまたがる勢力圏を確立したり、あるいは令制国内部の一定領域において独立した支配権を確立した。 こうした守護公権と戦国法による戦国大名の公権力性は、中世後期の日本列島において戦国大名の領国を主権的な「」としてみなせるもので、戦国大名を地域国家として評価する理解が存在する(ら)。 一方で、戦国期においても室町将軍体制は守護補任や地方の抗争を調停するなど一定の影響を及ぼしており、戦国大名は領国支配・拡大を行うにあたって地域支配の正統性を保証・追認させ、近隣大名を凌駕するために、幕府に運動しへの補任を受ける事例も多い。 こうした戦国期の室町将軍・守護職のあり方や戦国大名の家中において自立的な国衆の存在から、戦国期を室町将軍体制の解体過程とみなし、戦国大名を室町期守護からの権力の変質はありつつも連続性のあるものとして捉え、戦国大名を地域国家とみなす考えには否定的な論も提唱されている(ら)。 また、戦国期においても室町幕府直轄の室町殿御分国では守護、守護代の権力が維持されており、室町殿御分国内で国人領主から一国規模以上の戦国大名となったのは毛利氏、長宗我部氏の二氏のみ、九州の龍造寺氏を含めても三氏に過ぎないことから、国人領主の戦国大名化は内特有のものとされている。 一方で、戦国大名は武田信玄の信濃守護補任など地域支配への明瞭な影響の認められない事例も存在し、戦国大名は守護公権とは別に独自の大名権力をもっていたと評価されている。 また、支配正統性の確立・近隣への優越という動機に基づいて、朝廷へ多額の貢納を行う見返りに ()を獲得する戦国大名も多数存在しており、権威づけが守護職に限られないのも戦国大名の特徴である。 これにより衰亡寸前だったの権威が再認識されることとなり、天皇は戦国末期~の天下統一に少なからぬ役割を果たした。 戦国大名などの地域権力による領国拡大化が進展すると大名領国同士が接し、戦国大名家は相互に関係を結び、また境界などをめぐってを繰り広げた。 こうした状況のなかで尾張国のは当初室町将軍を推戴しつつ、間接的に天下人である室町将軍の公権を用いて影響力を強めていたが、やがて室町将軍を追放しつつも天下人の地位を保ち、他大名家への影響を及ぼし続けた()。 信長のあとにはが天下統一を達成し、中央政権としてのを樹立し、豊臣政権は諸大名家への介入を強め、戦国大名の独立性は否定されていく。 豊臣政権の後には徳川氏による江戸幕府が成立し、徳川氏は室町将軍家と同じく征夷大将軍職を世襲するが主従関係にある諸大名を守護に任じることは行わず、戦国大名はのもとへと移行していった。 戦国大名は以上の特徴をもつことが指摘されているが、一方で戦国大名論が研究されたものは主に東国地域であり、対して戦国期守護論は室町将軍の御分国で影響力の強かった畿内・西国を中心に展開されている。 東国地域は駿河今川氏や甲斐武田氏など守護大名に出自をもつ大名家から相模後北条氏のような非守護大名家の戦国大名も存在し、関東から東北地方には守護から国衆まで多様な出自で、なおかつ一国以下の郡規模の地域勢力が分立しており、戦国大名の定義には曖昧さが残されている点が指摘され、現在に到るまで検討が続けられている。 出自 [ ] 戦国大名の出自を概観すると、・・・・・・・・らのようにを出自とする例、・・・・・・・・らのようにやその・を出自とする例が多数を占めたが、・・・らのように層や勢力を出自とした例も多い。 その他、・のように幕府吏僚・を出自とする者も少なからずいた。 また、守護とを兼ねていたの例や、のようにから、或いはのようにから戦国大名化した例もあった。 やといった幕府の宿老の多くが勢力を失った背景には通常これらの大名はに在住し、守護代に領国を任せていた事が大きく関係している。 出自が、守護大名や守護代である戦国大名も、実際には、島津氏・織田氏のように半ば国人領主化した・などが、などで本家を襲った例も多い。 戦国大名の家格と身分秩序 [ ] 戦国時代の大名や武将には、家格や身分にとらわれず己の才覚によって自らの未来を切り開いた、とする通俗的理解が娯楽作品などにより定着している。 しかし現実の戦国時代は足利将軍を頂点とした厳格な身分社会であり、官途や官位といった栄典のランクは、社会的な「格」の表れとして重要視されていた。 天文8年7月、肥前の大名・は在京雑掌のを介して、室町幕府から修理大夫の任官を、足利義晴からは「晴」字の偏諱を授かった。 その後、純前は在京雑掌の任務を終え帰国することになった際、幕府に将軍への謁見を願い出た。 当初幕府では有馬氏の被官として活動する大村氏を陪臣と認識し、庭から御目見得させる考えであった。 しかし義晴が内談衆に諮問すると大村氏は将軍の直臣であることが明らかになり天文8年閏6月3日、純前は座敷上で将軍に謁見の名誉を浴し、さらに「晴」字の偏諱を願い出て許された。 しかし帰国後、純前は幕府に偏諱の返上を申し出を行った。 有馬氏にとって、自らの被官に過ぎない大村氏が偏諱を受けて有馬氏と同格になることは到底受け入れられないことであり、純前の行動は有馬氏に斟酌した結果であった。 しかし有馬氏は大村氏を許すことは無く、その後実子のを大村氏に入嗣させ大村氏を乗っ取ってしまった。 また永禄5~6年頃、伊予・喜多郡のが将軍に遠江守への補任を求めた時には、同じく伊予のが妨害工作を行っており 、戦国期の大名・領主たちは自らの家格上昇を望む一方で、周辺勢力が家格を上昇させていくことを許容することは無かった。 伊達稙宗 家格の違いが軋轢を生み、対外侵攻と失脚を招くこともあった。 16世紀前半、陸奥のは大名並みの支配を実現していたが、陸奥には同地域の武家秩序の頂点に位置するのが存在し身分的には国人に過ぎなかった。 文亀3年(1503年)にが越後のに送った書状について、「国人」から「大名」への書札礼に適っていないことが上杉氏側で問題になりを立腹させたこともあった。 そのような状況を打開するため大永年間に稙宗は幕府に奥州探題への補任を求めたが、幕府はという「空職」を与えただけで、大崎氏という上級権力が存在する状況は変わらなかった。 稙宗はその後幕府と距離を置くようになり、軍事侵攻を重ね領国の拡大に傾注するようになるが、度重なる軍事動員が家中の不満を招き幽閉されてしまうことになった()。 稙宗のひ孫にあたるは稙宗について、「(家中の人たちを)恐怖に感じさせた」と語っており、後世、稙宗期の治世が極めてネガティブに受け止められていたことが分かる。 毛利隆元 中国地方の戦国大名、は、父であるの偉業として4~5ヵ国を領有したことと、毛利氏を幕府のに列せられるまで家格を上昇させたことを挙げており、分国の大幅な拡大と幕府内の身分上昇は同等の価値があるものと認識していた。 戦国時代の日本では依然として室町幕府や朝廷は全国政権として存在し続けており、そのため地方の大名たちは朝廷や幕府の認証を受けずに自らの支配の正当性を証明することは困難であった。 また地方の戦国大名たちも将軍から偏諱を下賜されるなど、戦国時代においても足利将軍を自らの主君であると認識し続けていた。 支配 [ ] 戦国大名は、領国内に一円的な支配を及ぼした。 この領国は高い独立性を有しており、地域国家と呼びうる実態を持っていた。 戦国大名は、国人・被官層を家臣として組織化し、自らの本拠地周辺に集住させてを形成する等により、国人・被官層と土地・民衆との間の支配関係を解消もしくは弱体化しようと図った。 在地社会に対しては、在地社会の安全を確保する見返りに軍役を課すとともに、を実施して新たな租税収取体系を構築した。 また、国人・被官層及び在地社会における紛争を調停する基準としてを制定する者もいた。 こうした戦国大名による地域国家内の支配体制をという。 ただし、戦国大名は、地域国家内において必ずしも超越的な存在ではなかった。 戦国大名の権力基盤は、家臣として組織化された国人・被官層だった。 室町時代中期頃から日本社会に広がったは、国人・被官層にも浸透しており、国人・被官層は自らの利権を共同で確保していくため、国人一揆といった同盟関係を構築していた。 そして、戦国大名は国人・被官層が結成した一揆関係に支えられて存立していたのであり、国人・被官層の権益を守る能力のない戦国大名は排除されることもあり、こうした事例はと呼ばれた。 主な戦国大名 [ ] 以下のリストには戦国大名と国衆の区別に議論のある家も含む。 蝦夷地・奥羽 [ ] (、、)• その他の勢力 [ ] 寺院勢力 [ ]• 浄土真宗• などの寺院 神社勢力 [ ]• (現 )• などの神社 公家方(公家政権) [ ]• 武家方(間接的に全国を支配した武家政権) [ ]• (足利氏)• (足利氏)• () 現在の旧大名家 [ ]• - 現当主 :• - 現当主:• - 現当主:• - 現当主 :• - 現当主 : (叔父のが現大宮司)• - 現当主は血縁的には・の男系子孫。 - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• ・・・ : 氏族としては滅亡したが、血を引く著名な人物としてがいる(、、、、等の血を引いている)。 - の娘のジェスタ(室)は大友氏流に嫁いで血を残し、後に清田氏からはの側室・幾知(の娘)が出る。 幾知は(主)を産み、宗家が絶えた後は立孝の子孫がを継いだ。 その為、以降の細川氏当主は宗麟の子孫であり、元のもその一人である。 なお、ここに記したものは一部のみである。 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• 例えば、やは関東地方の戦国大名を後北条氏のような「統一権力」と結城氏・宇都宮氏・那須氏などの数郡程度の支配者である「地域権力」の2種類に分け、は「国主」として認知されていた両上杉氏(山内・扇谷)・後北条氏・里見氏および天正期に彼らとほぼ同等の支配体制を確立した佐竹氏のみを戦国大名とした。 だが、実際には後北条氏・上杉氏・武田氏などが結城氏のような規模の武家に対して同格扱いのを用いた例や「大名衆」と「国衆」がほぼ同義あるいは同じ対象相手に対して用いられている例もあり、戦国大名の定義づけや類型化には複雑な問題を抱えている(「史料に見る東国戦国大名の類型」)。 なお、関東の数郡規模の大名を戦国大名から外すことについては、土佐一国を支配した長宗我部氏が戦国大名で、同氏とほぼ同規模の石高領域を支配していた宇都宮氏が下野一国の支配していないことを理由に戦国大名ではないとするのはおかしい(一国以上を支配していたか否かという量的側面は基準にはならない)というの批判がある。 東国において一国未満の勢力しか持たない戦国大名が多いのは、他の地域よりも令制国が広大である事も原因であり、例えばの領国は最盛期においてもの一部に過ぎないが、実質は複数国にまたがる支配領域を持つ戦国大名の勢力に匹敵あるいは凌駕するものであった。 出典 [ ] []• 荒川善夫「史料に見る東国戦国大名の類型」『戦国期東国の権力と社会』岩田書店、2012年 (原論文:『千葉史学』34号(1990年))• 今岡典和、『戦国期の守護権をめぐって -越前朝倉氏の場合- 』、「関西福祉大学社会福祉学部研究紀要 12」、p. 56~57、関西福祉大学社会福祉学部研究会、2009年。 江田郁夫『戦国大名宇都宮氏と家中』岩田書院、2014年、P2-3。 山田康弘 『戦国時代の足利将軍』 吉川弘文館、2011年6月、58頁。 山田康弘 「戦国時代の足利将軍に関する諸問題」『戦国・織豊期の西国社会』 日本史史料研究会、2012年10月、81-82頁。 山田、2012年、82-83頁。 山田、2012年、85頁。 山田、2011年、P55。 黒嶋敏 『中世の権力と列島』 高志書房、2012年9月、43-45頁。 遠藤ゆり子編 『伊達氏と戦国争乱』 吉川弘文館、2016年1月、36頁。 山田、2011年、53頁。 小林健彦 「」『学習院史学』28号 学習院史学会、1990年3月、17頁。 山田、2011年、43頁。 参考文献 [ ]• 永原慶二『戦国大名』小学館、1975年• 勝俣鎮夫『戦国法成立史論』• 杉山博『戦国大名』• 小和田哲男『戦国大名』(中公新書637)、中央公論社、12月。 『上杉謙信のすべて』• 『武田信玄のすべて』• 『毛利元就のすべて』• 『百姓から見た戦国大名』、、 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]•

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きんきのごく8

戦国時代の地域権力を指す言葉としては、古くは「戦国大名」の他に「分国大名」「領国大名」「戦国諸侯」など様々な呼称が用いられていたが、に専門誌である『』にて(164号「太閤検地の歴史的前提(2)」)と(166号「戦国大名の権力構造」)が、 あいついで「戦国大名」の用語を用いたことがきっかけで普及したと言われている。 「戦国大名」の定義については現在に到るまで曖昧さを残したまま検討が続けられているが、おおむねのと比べると、戦国大名は、室町将軍など中央権力と一線を画し、守護公権のあるなしに関わらず国内を独自に統一する権力を有する。 また、有力国衆など・の統制を強化し(家臣団)を構成し、領国内においてを課すシステム(例えば)を確立している。 最初の戦国大名はの興したであり、戦国時代の嚆矢とされる一方、天下統一の際に最後の戦国大名としても名を残している。 領国内の治安を維持し統一を図るため、独自に被官・家臣間、領民間の争いを調停した。 そのため目安制を導入し領民や家臣からの訴え出を把握し、評定衆による裁判を行わせるなどして、大名主導により紛争の解決を行い、その基準を明文化した()を制定するものもあった。 戦国法の制定は戦国大名の大きな要素として評価される事もあるが、分国法を制定していた戦国大名は少数である。 このような戦国大名による独自性の高い強固な領域支配をという。 これは守護大名のがより集権性を高めて発展した支配形態とも評価される。 守護大名が室町幕府よりに任じられたという権威を根拠とする事により支配を行い、守護職は単位であるため、その支配も守護に任じられた令制国内に限られたのに対して、戦国大名は、により従来の守護を打倒するなど、その実力によって領国支配を確立して軍事行動や外交などを独自の権限で行った。 そのため戦国大名の領国は令制国単位に限られず、領国拡大を行い複数の令制国にまたがる勢力圏を確立したり、あるいは令制国内部の一定領域において独立した支配権を確立した。 こうした守護公権と戦国法による戦国大名の公権力性は、中世後期の日本列島において戦国大名の領国を主権的な「」としてみなせるもので、戦国大名を地域国家として評価する理解が存在する(ら)。 一方で、戦国期においても室町将軍体制は守護補任や地方の抗争を調停するなど一定の影響を及ぼしており、戦国大名は領国支配・拡大を行うにあたって地域支配の正統性を保証・追認させ、近隣大名を凌駕するために、幕府に運動しへの補任を受ける事例も多い。 こうした戦国期の室町将軍・守護職のあり方や戦国大名の家中において自立的な国衆の存在から、戦国期を室町将軍体制の解体過程とみなし、戦国大名を室町期守護からの権力の変質はありつつも連続性のあるものとして捉え、戦国大名を地域国家とみなす考えには否定的な論も提唱されている(ら)。 また、戦国期においても室町幕府直轄の室町殿御分国では守護、守護代の権力が維持されており、室町殿御分国内で国人領主から一国規模以上の戦国大名となったのは毛利氏、長宗我部氏の二氏のみ、九州の龍造寺氏を含めても三氏に過ぎないことから、国人領主の戦国大名化は内特有のものとされている。 一方で、戦国大名は武田信玄の信濃守護補任など地域支配への明瞭な影響の認められない事例も存在し、戦国大名は守護公権とは別に独自の大名権力をもっていたと評価されている。 また、支配正統性の確立・近隣への優越という動機に基づいて、朝廷へ多額の貢納を行う見返りに ()を獲得する戦国大名も多数存在しており、権威づけが守護職に限られないのも戦国大名の特徴である。 これにより衰亡寸前だったの権威が再認識されることとなり、天皇は戦国末期~の天下統一に少なからぬ役割を果たした。 戦国大名などの地域権力による領国拡大化が進展すると大名領国同士が接し、戦国大名家は相互に関係を結び、また境界などをめぐってを繰り広げた。 こうした状況のなかで尾張国のは当初室町将軍を推戴しつつ、間接的に天下人である室町将軍の公権を用いて影響力を強めていたが、やがて室町将軍を追放しつつも天下人の地位を保ち、他大名家への影響を及ぼし続けた()。 信長のあとにはが天下統一を達成し、中央政権としてのを樹立し、豊臣政権は諸大名家への介入を強め、戦国大名の独立性は否定されていく。 豊臣政権の後には徳川氏による江戸幕府が成立し、徳川氏は室町将軍家と同じく征夷大将軍職を世襲するが主従関係にある諸大名を守護に任じることは行わず、戦国大名はのもとへと移行していった。 戦国大名は以上の特徴をもつことが指摘されているが、一方で戦国大名論が研究されたものは主に東国地域であり、対して戦国期守護論は室町将軍の御分国で影響力の強かった畿内・西国を中心に展開されている。 東国地域は駿河今川氏や甲斐武田氏など守護大名に出自をもつ大名家から相模後北条氏のような非守護大名家の戦国大名も存在し、関東から東北地方には守護から国衆まで多様な出自で、なおかつ一国以下の郡規模の地域勢力が分立しており、戦国大名の定義には曖昧さが残されている点が指摘され、現在に到るまで検討が続けられている。 出自 [ ] 戦国大名の出自を概観すると、・・・・・・・・らのようにを出自とする例、・・・・・・・・らのようにやその・を出自とする例が多数を占めたが、・・・らのように層や勢力を出自とした例も多い。 その他、・のように幕府吏僚・を出自とする者も少なからずいた。 また、守護とを兼ねていたの例や、のようにから、或いはのようにから戦国大名化した例もあった。 やといった幕府の宿老の多くが勢力を失った背景には通常これらの大名はに在住し、守護代に領国を任せていた事が大きく関係している。 出自が、守護大名や守護代である戦国大名も、実際には、島津氏・織田氏のように半ば国人領主化した・などが、などで本家を襲った例も多い。 戦国大名の家格と身分秩序 [ ] 戦国時代の大名や武将には、家格や身分にとらわれず己の才覚によって自らの未来を切り開いた、とする通俗的理解が娯楽作品などにより定着している。 しかし現実の戦国時代は足利将軍を頂点とした厳格な身分社会であり、官途や官位といった栄典のランクは、社会的な「格」の表れとして重要視されていた。 天文8年7月、肥前の大名・は在京雑掌のを介して、室町幕府から修理大夫の任官を、足利義晴からは「晴」字の偏諱を授かった。 その後、純前は在京雑掌の任務を終え帰国することになった際、幕府に将軍への謁見を願い出た。 当初幕府では有馬氏の被官として活動する大村氏を陪臣と認識し、庭から御目見得させる考えであった。 しかし義晴が内談衆に諮問すると大村氏は将軍の直臣であることが明らかになり天文8年閏6月3日、純前は座敷上で将軍に謁見の名誉を浴し、さらに「晴」字の偏諱を願い出て許された。 しかし帰国後、純前は幕府に偏諱の返上を申し出を行った。 有馬氏にとって、自らの被官に過ぎない大村氏が偏諱を受けて有馬氏と同格になることは到底受け入れられないことであり、純前の行動は有馬氏に斟酌した結果であった。 しかし有馬氏は大村氏を許すことは無く、その後実子のを大村氏に入嗣させ大村氏を乗っ取ってしまった。 また永禄5~6年頃、伊予・喜多郡のが将軍に遠江守への補任を求めた時には、同じく伊予のが妨害工作を行っており 、戦国期の大名・領主たちは自らの家格上昇を望む一方で、周辺勢力が家格を上昇させていくことを許容することは無かった。 伊達稙宗 家格の違いが軋轢を生み、対外侵攻と失脚を招くこともあった。 16世紀前半、陸奥のは大名並みの支配を実現していたが、陸奥には同地域の武家秩序の頂点に位置するのが存在し身分的には国人に過ぎなかった。 文亀3年(1503年)にが越後のに送った書状について、「国人」から「大名」への書札礼に適っていないことが上杉氏側で問題になりを立腹させたこともあった。 そのような状況を打開するため大永年間に稙宗は幕府に奥州探題への補任を求めたが、幕府はという「空職」を与えただけで、大崎氏という上級権力が存在する状況は変わらなかった。 稙宗はその後幕府と距離を置くようになり、軍事侵攻を重ね領国の拡大に傾注するようになるが、度重なる軍事動員が家中の不満を招き幽閉されてしまうことになった()。 稙宗のひ孫にあたるは稙宗について、「(家中の人たちを)恐怖に感じさせた」と語っており、後世、稙宗期の治世が極めてネガティブに受け止められていたことが分かる。 毛利隆元 中国地方の戦国大名、は、父であるの偉業として4~5ヵ国を領有したことと、毛利氏を幕府のに列せられるまで家格を上昇させたことを挙げており、分国の大幅な拡大と幕府内の身分上昇は同等の価値があるものと認識していた。 戦国時代の日本では依然として室町幕府や朝廷は全国政権として存在し続けており、そのため地方の大名たちは朝廷や幕府の認証を受けずに自らの支配の正当性を証明することは困難であった。 また地方の戦国大名たちも将軍から偏諱を下賜されるなど、戦国時代においても足利将軍を自らの主君であると認識し続けていた。 支配 [ ] 戦国大名は、領国内に一円的な支配を及ぼした。 この領国は高い独立性を有しており、地域国家と呼びうる実態を持っていた。 戦国大名は、国人・被官層を家臣として組織化し、自らの本拠地周辺に集住させてを形成する等により、国人・被官層と土地・民衆との間の支配関係を解消もしくは弱体化しようと図った。 在地社会に対しては、在地社会の安全を確保する見返りに軍役を課すとともに、を実施して新たな租税収取体系を構築した。 また、国人・被官層及び在地社会における紛争を調停する基準としてを制定する者もいた。 こうした戦国大名による地域国家内の支配体制をという。 ただし、戦国大名は、地域国家内において必ずしも超越的な存在ではなかった。 戦国大名の権力基盤は、家臣として組織化された国人・被官層だった。 室町時代中期頃から日本社会に広がったは、国人・被官層にも浸透しており、国人・被官層は自らの利権を共同で確保していくため、国人一揆といった同盟関係を構築していた。 そして、戦国大名は国人・被官層が結成した一揆関係に支えられて存立していたのであり、国人・被官層の権益を守る能力のない戦国大名は排除されることもあり、こうした事例はと呼ばれた。 主な戦国大名 [ ] 以下のリストには戦国大名と国衆の区別に議論のある家も含む。 蝦夷地・奥羽 [ ] (、、)• その他の勢力 [ ] 寺院勢力 [ ]• 浄土真宗• などの寺院 神社勢力 [ ]• (現 )• などの神社 公家方(公家政権) [ ]• 武家方(間接的に全国を支配した武家政権) [ ]• (足利氏)• (足利氏)• () 現在の旧大名家 [ ]• - 現当主 :• - 現当主:• - 現当主:• - 現当主 :• - 現当主 : (叔父のが現大宮司)• - 現当主は血縁的には・の男系子孫。 - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• - 現当主 :• ・・・ : 氏族としては滅亡したが、血を引く著名な人物としてがいる(、、、、等の血を引いている)。 - の娘のジェスタ(室)は大友氏流に嫁いで血を残し、後に清田氏からはの側室・幾知(の娘)が出る。 幾知は(主)を産み、宗家が絶えた後は立孝の子孫がを継いだ。 その為、以降の細川氏当主は宗麟の子孫であり、元のもその一人である。 なお、ここに記したものは一部のみである。 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• 例えば、やは関東地方の戦国大名を後北条氏のような「統一権力」と結城氏・宇都宮氏・那須氏などの数郡程度の支配者である「地域権力」の2種類に分け、は「国主」として認知されていた両上杉氏(山内・扇谷)・後北条氏・里見氏および天正期に彼らとほぼ同等の支配体制を確立した佐竹氏のみを戦国大名とした。 だが、実際には後北条氏・上杉氏・武田氏などが結城氏のような規模の武家に対して同格扱いのを用いた例や「大名衆」と「国衆」がほぼ同義あるいは同じ対象相手に対して用いられている例もあり、戦国大名の定義づけや類型化には複雑な問題を抱えている(「史料に見る東国戦国大名の類型」)。 なお、関東の数郡規模の大名を戦国大名から外すことについては、土佐一国を支配した長宗我部氏が戦国大名で、同氏とほぼ同規模の石高領域を支配していた宇都宮氏が下野一国の支配していないことを理由に戦国大名ではないとするのはおかしい(一国以上を支配していたか否かという量的側面は基準にはならない)というの批判がある。 東国において一国未満の勢力しか持たない戦国大名が多いのは、他の地域よりも令制国が広大である事も原因であり、例えばの領国は最盛期においてもの一部に過ぎないが、実質は複数国にまたがる支配領域を持つ戦国大名の勢力に匹敵あるいは凌駕するものであった。 出典 [ ] []• 荒川善夫「史料に見る東国戦国大名の類型」『戦国期東国の権力と社会』岩田書店、2012年 (原論文:『千葉史学』34号(1990年))• 今岡典和、『戦国期の守護権をめぐって -越前朝倉氏の場合- 』、「関西福祉大学社会福祉学部研究紀要 12」、p. 56~57、関西福祉大学社会福祉学部研究会、2009年。 江田郁夫『戦国大名宇都宮氏と家中』岩田書院、2014年、P2-3。 山田康弘 『戦国時代の足利将軍』 吉川弘文館、2011年6月、58頁。 山田康弘 「戦国時代の足利将軍に関する諸問題」『戦国・織豊期の西国社会』 日本史史料研究会、2012年10月、81-82頁。 山田、2012年、82-83頁。 山田、2012年、85頁。 山田、2011年、P55。 黒嶋敏 『中世の権力と列島』 高志書房、2012年9月、43-45頁。 遠藤ゆり子編 『伊達氏と戦国争乱』 吉川弘文館、2016年1月、36頁。 山田、2011年、53頁。 小林健彦 「」『学習院史学』28号 学習院史学会、1990年3月、17頁。 山田、2011年、43頁。 参考文献 [ ]• 永原慶二『戦国大名』小学館、1975年• 勝俣鎮夫『戦国法成立史論』• 杉山博『戦国大名』• 小和田哲男『戦国大名』(中公新書637)、中央公論社、12月。 『上杉謙信のすべて』• 『武田信玄のすべて』• 『毛利元就のすべて』• 『百姓から見た戦国大名』、、 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]•

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