イスカリオテ の ユダ。 なぜイスカリオテのユダにサタンが入ったのか?

イスカリオテのユダは、なぜ、イエス様を裏切ったか?・・・マタイ伝27章3~4節

イスカリオテ の ユダ

イスカリオテのユダはキリストを銀貨で売ったとされる、キリスト教最大の裏切者と知られている者です。 他にもユダと言う名の者がいる為、出身地カリオテからとって「イスカリオテのユダ」と呼ばれています。 「マタイの福音書」によると、ユダは十二使徒の一人でありながら金銭目的でユダヤの祭司長たちにキリストの引き渡しを持ちかけ、銀貨三十枚を得る約束をしました。 その後、キリストと十二使徒は過ぎ越し祭の日に晩餐を行いますが、キリストは「君達の内誰かが私を売り渡すだろう」と言い、ユダにパンを与えました。 ユダはその場を素早く離れたのでした。 そして遂に運命の時が訪れます。 ゲッセマネの園でユダは救世主に親愛の接吻をしました。 接吻は「この者がキリストである」という敵への合図だったのです。 現れた兵隊はキリストを捕らえ、ユダヤの祭司たちは裁判に掛けてキリストを処刑してしまいました。 ユダはその罪深い行為が恐ろしくなり、銀貨三十枚を祭司たちの足元に投げ付け、自ら首を吊って命を絶ったとされています。 では、裏切者の代名詞となっているユダについての絵画14点をご覧ください。 一部閲覧注意がございますので、お願いいたします。 PR 「ジェームズ・ティソ作 1886-94年」 西洋では黄色は背徳や裏切りなど負のイメージがあり、ユダは 黄色の衣装を身にまとっていることが多いです。 また、伝説では赤毛と されています。 ガリガリに痩せたこの姿は浮浪者のような感じですね。 「フランスのフレスコ画 16世紀」 ユダは一行の会計士を任されていました。 しかし、裏切者という印象が 付いた為か、不正をしていたという伝説も残されています。 これ故か、会計士の仕事は歴史上嫌われていました。 「 ジョット・ディ・ボンドーネ作 1276-1337年」 手に銀貨の入った袋を握るユダ。 ユダヤ教の祭司たちはキリストを 如何に陥れるかを話し合っているようです。 背後には真っ黒の悪魔さんが控えていますね。 「 リッポ・メンミ作 14世紀」 こちらも銀貨三十枚を頂こうとしているユダ。 一番右側がユダだと 思われますが、左側の人にかなりよく似てるような・・・。 テーブルの上に乗る銀貨。 三十枚という数字は奴隷が一人買える 程度の安い値打ちであったそうです。 現代で考えると奴隷一人が 安いって、どうなの?と思いますが・・・。 「 カール・ハインリッヒ・ブロッホ作 1834—90年」 過ぎ越し祭の日、キリスト一行は晩餐をします。 「これが最後の晩餐と なるだろう。 この中の一人が裏切るからだ」とキリストが予告をし、 ユダにパンを与えます。 裏切りがばればれのユダはその場をそっと 離れるのでした・・・。 「Pieter Pourbus 作 1523-84年」 本当だとユダの裏切りはキリストのみが知っており、他の使徒達は 分かっていませんが、この絵画はペトロと思われる人物がユダを 捕まえているようですね。 というか、右側のスケルトンは何者・・・!? 「Convent of San Marco のフレスコ画 1437年」 そして運命の日。 誰がキリストか分かるよう合図を用意しろ、という 祭司側の要望により、ユダは親愛の証である接吻を利用します。 ユダがキリストに接吻をした途端、兵が現れて彼を捕らえたのでした。 「 シモ・ゴメス作 1845-80年」 こうしてキリストは磔刑され、命を落としてしまいます。 しかし、ユダは 罪の意識に耐え切れなくなり、祭司の元へ戻って銀貨を捨てたとされて います。 銀貨は畑を外国人墓地に変える為に使ったそうです。 「ブルガリアのStrupetsのフレスコ画 16世紀」 罪が償い切れず、絶望したユダは首をくくって命を絶ってしまいます。 抽象的な絵画ですが、地味に怖い作品です・・・。 「15世紀のフレスコ画」 また「使徒言行禄」によると、ユダは自分で土地を買った事になって おり、そこへ落ちて内臓が飛び出して死んだと言われています。 物語が混じり、首を吊って内臓が出た状態になっているようですね。 腹からユダの魂が出てきて、悪魔が連れ去ろうとしています。 「Giovanni Canavesio 作 1491年」 こちらも同様の状態の作品。 うおぉぉ・・・と思う程、グロい絵画ですよね^^; 魂がミニチュアの自分と言う表し方は中世時代に 特有の表現となっています。 「Sascha Schneider 作 1870-1927年」 死後、地獄へと堕とされてしまったユダ。 キリストは茨の冠を被って 十字架を背負って殉教しましたが、復活して天へと召されました。 しかし、ユダは暗い地の底で罪の意識と戦いながら、永遠に悪魔に よってさいなまれ続けるのです。 お前は永遠にこちら側に いるという親愛の現れなのでしょうか。 こちらをじっと見つめるユダ。 彼の眼差しからは克明な感情は読み取れませんが、 なんだか可哀想な気がしてきました・・・。 ダンテ・アリギエーリの「神曲」において、イスカリオテのユダは「三大裏切者」の一人となっています。 他の二人はカエサルを裏切ったブルートゥスとカッシウス。 彼等は地獄の最下層コキュートスの場において、半身が氷漬けにされたルシファー ルチーフェロ によって噛みつかれております。 ルシファーは三つの頭を有しており、それぞれが下半身部分をがぶりと噛んでおり、裏切者達は上半身をだらりと垂らしているのです。 このシーンを始めて知った時、どんな状態なんだ!?と衝撃を受けたのを覚えていますが、後になって傲慢によって神を裏切ったルシファーが、同じ罪である者達を食べているのは変だな~?と思いました。

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イスカリオテのユダの絵画14点。キリストを銀貨30枚で売った裏切者の悲しき人生 : メメント・モリ

イスカリオテ の ユダ

しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。 自分で始末することだ」と言った。 5 それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。 そして、外に出て行って、首をつった。 6 祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。 血の代価だから」と言った。 7 彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。 8 それで、その畑は、今でも血の畑と呼ばれている。 9 そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。 「彼らは銀貨三十枚を取った。 イスラエルの人々に値積もりされた人の値段である。 10 彼らは、主が私にお命じになったように、その金を払って、陶器師の畑を買った。 」 1. イェシュアを売ったことを後悔したユダ• イェシュアが罪に定められ、死刑にされることを知ったユダは自分の取った行動を後悔しました。 イェシュアの逮捕に協力したものの、その結果イェシュアを死刑に至られせてしまったことは全の想定外だったと思います。 イェシュアが最高議会からローマ総督に引き渡されるにおよんで、彼は受け取った銀貨30枚を返却しただけでなく、首を吊って自殺するという悲劇的な結末を迎えることとなってしまいました。 ユダだけでなく、ペテロもイェシュアを裏切りましたが、その結末は対照的です。 その違いはユダが後悔したに過ぎなかったのに対し、ペテロは神に立ち返ったことでした。 「後悔」と神へ立ち返る「悔い改め」とは全く異なるということです。 前者の「後悔する」とは、「残念に思う」とか、「まずいことをしたと考える」ことですが、後者の「悔い改める」とはありのまま神に立ち返ることを意味します。 残念なことに、ユダは神に立ち返って助けを求めようとはしませんでした。 ユダに対してもイェシュアは忍耐強く、ごまかしの歩みから神に立ち返るようにと何度もそのチャンスを与えてきました。 しかしユダの心は変わらず、金銭を愛してしまい、サタンが彼の心を支配することを許してしまったのです。 「私は罪を犯した。 罪のない人の血を売ったりして。 」 4節 とユダが後悔した時には、時すでに遅しでしたが、ある意味、このユダの発言はイェシュアの無罪性を証言しているとも言えます。 イェシュアを売った金で旅人たちの墓地が買われた• ユダは受け取った銀貨30枚を返却しようとしましたが、「私たちの知ったことか。 自分で始末することだ」と一蹴されてしまいます。 「自分がしたことは、自分で責任を取れ」とばかりに、拒絶されてしまったのです。 ユダはその金を神殿に投げ込んで後、首を吊って自殺したのです 5節。 祭司長たちはその金を神殿の金庫に戻すのは良くないと考え、相談して、陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にしたのです。 つまり、きよくない金であるゆえに、きよくない人のために、きよくない土地を購入しようと決めたのです。 ここでの「旅人」とは、散らされた羊の群れ、すなわち、失われた10部族のことだと解釈する人もいます。 このことをマタイはエレミヤの預言が成就したと語っていますが、厄介なことに、似たような出来事はあっても、預言と言える的確な内容がエレミヤ書には出てこないのです。 ゼカリヤ書11章13節に、「『彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。 』そこで、私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。 」とあります。 「尊い価」というのは皮肉な表現であり、これまでの労苦に比べるなら全く合わない金額という意味です。 ここでの銀三十というのは奴隷一人の値段であり、ユダがイェシュアを売った額と同じだということです。

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ユダの福音書 ― どのようなものか

イスカリオテ の ユダ

イスカリオテのユダです。 彼はわずか銀30枚でイエスさまをユダヤ人たちに売り渡した者として、極悪人のように言われていますが、そんな彼を擁護する人たちもいないわけではありません。 重要人物にしてはその記事は少なく、余り知られていないのですが、まるで血の通っていない機械のように彼がイエスさまを裏切ったとは、どうしても思えないのです。 それなりの理由があって苦しんだのではないかと、同じ視点に立てないまでも、その苦しみをいくらかでも理解することができればと思いました。 不十分な点はご勘弁頂きたいのですが、まずはイエスさま十字架の発端となった彼の記事から見ていくことに致ししましょう。 イスカリオテとはカリオテの人という意味で、イスラエル南部の地方都市と言われています。 カリオテとは大都会という意味です。 彼の父がイスカリオテのシモン(ヨハネ6:71)と呼ばれていますから、恐らく、代々都会人として生活してきたのでしょう。 それが、その町を離れたところで、イエスさまにお会いしたのです。 いつ、どこでイエスさまの弟子になったかは不明ですが、この人のもとでこそ自分の力を発揮することが出来ると思ったのでしょうか。 他の弟子たちほとんどがガリラヤ出身の田舎者だった中で、都会で培った会計管理の才能があったのか、彼は12使徒の一人に加えられ、弟子団の財務担当者になっていました。 かなり優秀で、人からの信頼も得ていた人物と言えそうです。 その彼が、極悪人・悪魔の化身などと言われるのは、何かの間違いではないかと思うほどですが、間違いなく彼は、イエスさまをユダヤ人たちに売り渡し、イエスさま十字架の発端となっていくのです。 「2日たつと過越の祭りになります。 人の子は十字架につけられるために引き渡されます」(26:2)これはイエスさま最後の一週間、水曜日のことですが、この日のイエスさまの記事はこれだけです。 ところが、イエスさまが十字架の予告をされている同じ時に、大祭司カヤパの家に祭司長や長老たちが集まり、イエスさまを捕らえ殺す相談をしています。 そんな相談は多分、何度もしていたのでしょうが、このときはユダヤの最高議会サンヒドリンの議員たちが相談をまとめたということで、恐らく彼らの最終決定だったのでしょう。 そこにユダがやって来ます。 「『彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか』すると彼らは銀貨30枚を彼に支払った。 そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた」(26:15-16) 銀貨30枚は牛一頭、奴隷一人の値段と言われます。 単純に換算はできませんが、現在の日本円で70〜80万円くらいの見当でしょうか。 ちょっと比較してみたのですが、ベタニヤのマリヤがイエスさまに注いだ香油が 300デナリで、銀貨約75枚になります。 マリヤのこの行為に、ユダは本当に腹が立ったのでしょう。 「この香油を売って貧しい人に施すことができたのに」 しかし彼は、その半分にも満たない銀貨をもってイエスさまを裏切ります。 自分の価値を認めて貰えない悲哀を感じ……、もっと大きなことができると、自分の能力を信じて疑わない部分があったのでしょうか。 銀貨30枚とは、旧約聖書ゼカリヤ書の預言でしょう。 しかしここで、銀貨30枚を受け取る者が、なぜか預言と逆転しています。 もしかしたらこれはパラドックスで、罪の問題に触れようとしているのかも知れません。 ゼカリヤ書では、イスラエル指導者たち(羊の商人)から羊を守る賃金として銀貨30枚を受け取った牧者は預言者でした。 しかし羊たちは、利己的な羊の商人たちと同じように、牧者のことばを聞くまいと耳をふさぎ、心をダイヤモンドのように堅くして(7:12)好き勝手な道に走り、自己中心で、互いに傷つけ合い、罪に走っていきます。 羊とはイスラエル、牧者は預言者ゼカリヤを通して、恐らく主ご自身を指しているのでしょう。 彼は羊を牧することに失望して彼らを見捨て、銀貨30枚を神殿に投げ入れてしまいます。 神さまは、イスラエルに注いだ慈愛(11:10)を彼らから取り上げてしまいます。 その預言は後のイスラエルの苦難の歴史に実現されていくのですが、もうひとつ、もっと具体的に、彼ユダにおいて再現されるのです。 その様子を見ていきたいと思います。 自分の理想を実現することができる町と思ったのでしょうか。 その町で、ガリラヤに行かれる前のイエスさまにお会いしたのでしょう。 ガリラヤ人でない彼が、イエスさまの弟子に加わった状況はこんなところかと思われます。 イエスさまの弟子にとは、彼の場合、何もかも捨ててイエスさまに従ったペテロやヨハネのようにではなく、自分の目的実現のためについていくといった思惑が感じられ、イエスさまの中に、反乱軍指導者の力を見たからついていったと見る人たちもいるようです。 彼自身にもよくは分からなかったでしょうが、才能も自信もある都会人の価値観が見え隠れしているような気がします。 弟子団の中でその能力を発揮しているのは彼だけで、他の者たちは、能力があってもそれが用いられた形跡はないのです。 彼だけが弟子団の「財布を預かる」というポジションを持っていて、もしかしたら、自分から望んで引き受けたのかも知れません。 彼はイエスさまの弟子になりました。 牧者であり主ご自身であったイエスさまのそばで、イエスさまの声を聞きながら充実していた筈でした。 ところが、逆に彼の失望が深くなっているようです。 彼は、自分がイエスさまに求めたものは、今ここにあるものとは違うと感じ始めているようで、その苦悩が伝わってきます。 祭司長、長老など、イスラエル指導者たちへの権力羨望があったのでしょうか。 彼はゼカリヤ書に言われている羊のように、飼い主の声に逆らい、心を頑なにしていくのです。 彼の顔が、心病む人のように、次第に鉄面皮になっていきます。 「あなたがたのうちのひとりがわたしを裏切ります」「先生。 まさか私のことではないでしょう」(26:25) ゲッセマネの園で、キスをして、これがイエスさまだとユダヤ人たちに知らせたなど、その最たるものではありませんか。 ユダを「誠実で優秀な求道者」と感じるような印象で言って来ましたが、実はマタイは、そのような彼を暗示させる記事をすべて削除し、ただ彼の裏切りだけに的を絞っています。 今朝選んだテキストの26:14-16はマタイだけのもので、他にも彼は幾つか彼だけの記事を記録していますが、恐らくマタイは、ユダに弁解の余地はないと、彼の気持ちをここで現したかったのでしょう。 出来心からではなく、練りに練った計画の裏切りであり、その責任は彼自身にあると聞こえてきます。 ユダはついに主を裏切り、もともと主のものであった銀貨30枚を自分のものとして、自分の牧者である方抹殺の発端となってしまいました。 それは彼が、イエスさまに従いながら、その実、自分自身を捨てることがなかったことに起因していると感じられます。 イエスさまの弟子になるのに、何かの能力が必要ということはありません。 むしろ、パウロのように、「キリストのゆえにすべてのものを糞土のように思っている」(ピリピ 3:8)と、イエスさまに従い尽くす信仰を求めていきたいと思わされます。 彼は「12使徒のひとりであるイスカリオテのユダ」と言われました。 そんな彼が、イエスさまを裏切った者というレッテルを貼られています。 イエスさまが彼を赦されたかどうかは分かりません。 しかし、裏切り者ユダは、私たち自身でもあると覚えなければならないでしょう。

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